ずっと友達で。

3日間の西宮浜アトリエ78でのイベント無事終了することが出来ました。

多数の方にお越しいただき人と人の繋がりから新しいご縁もたくさん出来、

充実したイベントになりました。

皆様ありがとうございました!

 

ここからは半分自分の記録のために書きます。

 

イベントの前日、親友が闘病の末、力尽き天国へ旅立ってしまいました。

彼女とは18才からの付き合いになります。

短大のクラスが一緒で私たちはいつも4人でいました。

それはそれは美しい子です。

でもそれを鼻にかけるでもなく自分のしたいことをしっかり見据え着実にそれに

向かって進む聡明な子です。

やはりモテモテ。 一緒に歩いているとこんなにキレイとこんなに男の子は振り返るんだー、

というのもちょっと横ながら味あわせてもらいました^^

 

病魔が襲った3年前。

でも順調に回復し食べられるものもどんどん増え、仕事もとてもやりがいがあり、

恋愛も順調というようなことをランチの度に話していて私たち3人も本当に

治ったんだとホッとしていました。

1年前の1月、治っていなかったのか、新しい病気なのか定かではありませんが

身体の不調は不吉な予感どおり。

再び治療の計画を組むことになりました。

聞き慣れない病名をネットで調べ愕然とし私たちも一緒に戦う準備、

「絶対!絶対治ってこれからも今まで通りに!」と私たちの意識も強いものになりました。

 

治療計画の合間を縫って予定を組みランチをしました。

今までは年に3、4回ほど会う間隔でしたが私たちと会うことを励みに思ってくれ

、また私たちも他愛のない会話だけど勇気づけられたら、と思い

「月に一回」を目標に会いました。

 

1月から春が過ぎ、夏が過ぎ、秋になったころ他の病気がまた彼女を蝕みました。

そして11月のはじめ、もう治療が出来なくなりました。

いつも状況を逐一メールで私たちに伝えてくれていた彼女はいつもどうり少し絵文字混じりで

「緩和になった」と伝えてきました。

お医者さまからそれを聞いた彼女はどんなだっただろう、ご家族は、

そして私たちにもどんな思いで伝えてきたか。。。

緩和? 緩和ってどうゆうこと? 私も自分の目を何度も疑い動揺しました。

夜お母様に電話するとやはり疲れた涙声で本人も知らないことも知らせてくださいました。

 

緩和。。まだこんな歳なのに残酷すぎる。

 

予定の調整をして、また時間が許す限り彼女がいる京都の病院へ行きました。

彼女が喜ぶのでこれからはもう出来るだけ行こうと決めました。

それぞれが1人の日も、予定が合えば内2人や、揃って3人の日もありました。

病気のためもう食べることは許されない彼女は行く度行く度痩せていき体力もなくなって

いきました。

 

そんな中ある日、枕の傍らに置いていたニット帽の中から「これプレゼント」と手鏡をくれました。

写真 2-1

 

彼女はニット講師の免許も持つ編み物がとても得意な人で刺繍もします。

「3人お揃い。これはキットやから全然簡単ねん」とその日一緒に行ったもう1人の友達と私に手

渡してくれました。

 

12月に入り一泊だけ実家に帰りました。

「自分の部屋で自分のものを着々と整理をしているのを見るのが辛いです」と

お母様のメールにありました。

この日もお母さんの手料理を食べられたらどんなにいいだろうと思いました。

そのまま転院。 緩和病棟のある違う病院になりました。

 

掃き出しの窓から光がたくさん降り注ぐ新しく綺麗な個室でした。

窓際のミニテ―ブルには彼女が数年前に作ったという布で出来たクリスマスツリーを中心に

いろんな方からの励ましのプレゼントであふれていました。

 

年を越すことは出来ましたが体の痛みには薬を増やし、また一日に点滴から入れられる

カロリーも少しになり、他の悪い症状も出てきてだんだんしんどそうになってきました。

もう1人では行かずに2人以上で行き2人が話しているのを聞いてもらうようにしよう、

と話しました。

そしてこの頃風邪などでなければマスクをせず私たちの顔をしっかり見せてあげて欲しい、

とお母様に言われました。

病室には家族写真、子どものころの写真、旅行先での写真がたくさん貼られ、それは

行く度に増えていきました。

「やっぱり赤ちゃんの時からめちゃめちゃ可愛いわぁ」とか一緒に行ったヨーロッパの

卒業旅行の話、学生の頃の話を冗談交じりにたくさんしたら彼女はちょっと入ってきてくれたり

笑ったりしてくれました。

 

1月26日、日曜日、3人でまた病院に行きました。

それぞれの子どもたちは談話室で待ってもらい3人で病室に入りました。

この日、前回と様子がかなり変わって週単位でなく、もう日にち単位だと感じました。

この日は本当に私たちの会話をほぼ聞いているだけでしたが帰る時に「ごめんなぁ」と

言うので「また来るよ!」と大きな声で返事し10分少しで病室を出ました。

私たちはもう残された時間はわずかと感じ「あさって火曜またなんとかして来よう」となりました。

 

「火曜行くよ」、のメールになかなか返信がないことがあり得ないことでした。

今まで元気なときも、病気になってからも携帯は枕元にあり本当にすぐに返信を

してくれる子だったので。

とても不安になっていたところ月曜の夜に返信がありました。

初めてのお見舞い断りのメールでした。

そして他にも書いてありました。

 

水曜日のまだ夜も明けない頃、彼女は旅立ったそうです。

私たちに送ったメールは彼女の最後のメールだったと教えてくださいました。

月曜の夜に返してくれたメールは最後の力を振り絞ってしてくれたんやね。

3日前3人揃って会いに行けて良かった。

顔を見に行けて、顔を見てもらって良かった。

今となってはその時に温かい彼女に触れたらよかったな、とは思いますがそんな最後の

ようなことはしたくなかったので。

彼女自身したいこと、やりたいことがいっぱいいっぱいあっただろうな、と思います。

それを思うとなにより無念で一番悔しいです。

 

あれから数日経ちました。

こんなふうに彼女が知らない日が増えていくんだな...

この空の下にいないのか...と考えると寂しいです。

そして記事がアップされてこない事でその現実味を感じる日々です。

いろんな思いを乗せて作ってくれた手鏡はずっとバッグに入っています。

これはずっと宝物。

 

今は病室での彼女が浮かびますがそれは嫌だと思うから前の元気でキレイで生き生きした

彼女をずっと思い出したいとおもいます。

これからは3人で会うのがぽっかり穴が開いた感じだろうな。

3人で会う時は絶対降りてきてね。

ありがとう。

ずっと友達で。

 

♢最後のランチ 2013/9/17(火) 京都グランヴィア 和食のあとホテルロビーでお茶

名物の特大ショートケーキを2つ頼んで4人で分ける